構成庭園の位置図
![伊勢國お庭街道|伊勢神宮の参拝に繋がる[令和のお伊勢参り]|三重ガーデンツーリズム協議会](https://www.ise-oniwakaido.jp/cms/wp-content/uploads/2025/03/kaido01.png)
①六華苑(桑名市)
②横山氏庭園(菰野町)
③伊奈冨神社(鈴鹿市)
④真宗高田派本山専修寺 雲幽園(津市)
⑤北畠氏館跡庭園(津市)
⑥旧長谷川治郎兵衛家(松阪市)
⑦玄甲舎(玉城町)
東海道
①六華苑
三重県内を通る東海道は約45 ㎞で、東海道42 番目の宿・桑名宿から、四日市・石薬師・庄野・亀山・関・坂下を経て天下の難所鈴鹿峠へと向かいます。
桑名宿へは、多くの旅人が、熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに入ったことから「七里の渡し」と呼ばれています。ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称されています。
また、東海道47 番目の宿場町である関宿は、江戸から明治期にかけての町屋が約200 軒も残り、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。西の追分からは大和街道が、東の追分からは伊勢別街道がそれぞれ分岐していたため、江戸時代にはこれらの街道を往来する人々でにぎわい、参勤交代や伊勢参りなどの交通の拠点として繁栄していました。東の追分にある大鳥居は、「伊勢神宮一の鳥居」と称されています。なお、20 年に一度の式年遷宮の際、伊勢神宮の宇治橋の内側の鳥居は「関の追分」に、外側の鳥居は「七里の渡し」に移設されます。
菰野道
②横山氏庭園(菰野町)
菰野道は、東海道四日市宿と菰野一万石の城下を往来する道で、城下町や湯の山を訪れる旅人をはじめ、参勤交代で江戸に向かう菰野藩主も通りました。亀山から来る巡見道と交わる宿野の西久保の辻から城下の東町口にかけては、 かつて立派な松並木がつづき、旅人も立ち止まって見惚れたといいます。
伊勢街道
③伊奈冨神社(鈴鹿市)
⑥旧長谷川治郎兵衛家(松阪市)
伊勢街道は、四日市市日永の追分で東海道から分岐し、また、いくつかの街道とも合流して伊勢湾沿いを南下し、伊勢までの距離およそ十八里(約70km)。平安時代には、すでに伊勢神宮への一般人の参拝も一定数あったようですが、その後、武士の神宮への崇敬心の高まりや街道が整備されたこともあり、庶民の伊勢参宮が一般化し、多くの人々が伊勢を目指しました。「伊勢に行きたい伊勢路がみたい。たとえ一生に一度でも」と伊勢音頭にも歌われ、多くの人があこがれた伊勢参り。時には500万人もの人々が熱狂的に伊勢を目指したこの道は、東海道に次いで交通量が多く、物資や文化、情報の行き交う賑やかな街道でした。
明和町内には、天皇に代わり、飛鳥時代からおよそ660年という長きにわたり、国の平安と繁栄のため、都を離れ伊勢神宮の天照大神に仕えた特別な皇族女性「斎王」が500人の官人や侍女と住んでいた独特で特別な都「斎宮」があります。東西およそ2キロメートル、南北およそ700メートル、137.1ヘクタールにおよぶ広大な面積の史跡で、昭和54 年に国指定史跡となりました。
伊勢別街道
④真宗高田派本山専修寺 雲幽園(津市)
伊勢別街道は、関宿東追分から津市芸濃町椋本(むくもと)、津市一身田(いっしんでん)を通り、伊勢街道と合流する江戸橋までの総距離およそ四里二六町の街道です。日本の政治の中心が大和にあった頃には、大和から伊賀を通って伊勢に至る主要ルートでもありました。「いせみち」「参宮道」「山田道」などと呼ばれ、幾つかの宿場町を持ち、江戸時代には京都方面からの参宮客で賑わいました。現在でも各地の参宮講の講社札を掲げた旅宿が残されていたり、参宮講社の寄進によって作られた県下最大の常夜燈が現存しています。
伊勢本街道
⑤北畠氏館跡庭園(津市)
⑦玄甲舎(玉城町)
大和国と伊勢神宮を結ぶ伊勢本街道は、別名・参宮本街道、伊勢中街道とも呼ばれていました。
南北朝以後、伊勢国司北畠氏が現在の津市美杉町の多気に館を構え、多くの武士団が居住し初期城下町を形成したことや、伊勢参宮者の増大にともない多くの人々がこの街道を利用したと言われています。現在でも、旧宿場町に残された道標や常夜燈、古い町並みがかつての姿を今に伝えています。
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